昭和56年11月10日 月次祭        (末永信太郎)    №56-125 A-2



 南米の方から、若先生充てに手紙が参っております。あれには、今度、南米の一番大きい新聞で、全土にわたって、その、講読のあれを持っておるという新聞社から、あちらの宗教覧があります。その宗教覧に金光教を取り上げたい、と。とりわけ、その合楽理念とはということを、末永先生のところに行って来たという手紙でございます。ほれで、それを本部にも、これと同じ手紙を出しました、と。
 で、合楽からも、いわゆる合楽は教祖金光大神の信心をかく現しておるということを、まあ、言えというのでありましょう、合楽理念に基づいて。本部では、金光教が、ね、いつこういう風にして金光教が生まれて、金光大神の信心はかくだというように、まあ、言うて得られることであろうと思いますけれども、合楽の場合は、なら、教祖金光大神の信心をかく頂き、かく広く深く頂いて、かく広く深くおかげが頂かれる。
 いわゆる、人間が真実、人間が幸福になる、人間が助かって行けることのための宗教であるというようなことを芯にして、書いてあろうと思います。しかし、大変なことになって来たもんですね、神様のごひれいっちゃ、もう本当に畏れ入ってしまうです。ね。しかもその、合楽理念を取上げると、こう言う。ね。
 皆さんどうでしょうか、こうして合楽に御神縁を頂かれて、ね、本当に合楽の信心が世界の、ね、総氏子に問えれる内容を持っておるかどうかと、持っておるんだ、と。ね。なるほど、金光大神の信心は百年間、説かれて参りましたけれども、いわば、合楽で説かれるようなことはなかったんです。人間が人間らしゅう生きながら、しかも、これは人間の、人間が助かることのための宗教なんだ。ね。
 過去数千年に渡って、いろいろな宗教が出けた。とりわけ、大きな仏教とかキリスト教というような、そういう宗教を凌駕したものだということを、事実を実証しながら、ね、それを伝えて行こう、と。それを、まあ、合楽理念に基づいての、まあ、おかげということになる訳です。ね。
 とにかく、まあ、言うならば、それこそ一読して本当に心ある人ならば、一遍に飛びつきたいような、今までの宗教には飽き足らない、今までの宗教じゃどうも合点が行かなかったという人達が合楽理念を一度それに会うことが出けたら、ね、いわば、その合楽理念に基づく生き方、幸福を求めて行こうというような人達が出けるようなね、まあ、素晴らしい表現、表現と言うても、これは、んなら、嘘八百じゃいかんからね。ほれで、合楽でおかげを頂いておる事実をね、あの、皆に聞いて頂こう、また、若って頂こう。
 南米の方達にも分かって頂こうという風に思う。そういう、神様は機会を与えて下さったように思うのです。第一の私は、皆が願って止まない、いわゆる、おかげの受けられる宗教だ。ね。それから、お徳が受けられる宗教だ。しかも、そのお徳はあの世にも持って行け、この世にも残しておけるんだ、と。ね。
 お徳を頂かなければ、人間の幸福というのはあり得ないんだ、と。そのおかげを受けるためにはかく、お徳を受けるためには、こういう信心をさせて頂いてというように、ね、それを見やすう、その気になって、みんな勉強をする、精進をする気になったら誰でも出けるというようなところが、まあ、こんなこと、本当だろうかと思うくらいな、まあ、表現でね、実際、けれども、これを見て下さいというおかげを実証しながら語り、それを送ってやりたい。
 先だってから、宮崎支部の大祭でございました。ちょうど丸五年前に、菊栄会の方達が信心実習を致します。この度は、宮崎地方に行こうということになりまして、宮崎地方に参りました。私が行くと言うので、宮崎の信者さんが、宮崎の信者さんと言うても、宮崎県中の、まあ、あらあらの信者さん方が、当時50名ぐらいおられましたでしょうか。が、みんな宮崎に集まってみえまして、何とかという大きなホテルでしたが、ホテルで、まあ、菊栄会が宮崎入りをして、信心の研修を、まあ、信心の実習ですよね。
 それで、あちらにも、まあ、だんだん信者さんが出けて来たから、宮崎にも支部をつくらにゃいかんだろうという事から、もう慌ただに、ね、そのホテルで第1回の、第1回というか、支部発会の、まあ、式というか、お祭りを、お祭りと言うてもね、そん時の写真があるそうですが、もちろん、何ちゅうか、何とかという素晴らしい小説家が、まあ、先月までこの部屋を借りきっておられたという、大変、一番最高のお部屋でしたが、そこの部屋のね、ホテルに行くと冷蔵庫がありましょう。
 その冷蔵庫の上に御神米をこう立てられて、そして、私はもちろん装束も何も持って行ってませんから、そのままで御祈念をさせてもろうて、まあ、支部、そん時に支部長が選出されたり、まあ、いろいろ、まあ、発会を致しましたのがちょうど五年前でございました。そして、五年後。
 もう、年年歳歳、御信者が増えて行く。今度も、ちょうど前の日までお湿りであったという、その宮崎市に大変、快晴のお天気のおかげを頂いて、2時から。ほれはもう、(  から?)あなた素晴らしい、まあ、国際的なホテルだそうでうが、まあ、素晴らしいホテルの大広間を借り切ってでございましたが。ね。何と320名の、320名のお弁当が足りなかった。幹部の方達は、あの、頂かなかった方達もあったと言われるくらいに、多いかったんです。
 しかしね、まあ、私もだいたい、私はそげんばさらか驚かん方ですけれども、神様の働きというのは限りがないんだと、よく知ってるはずだけれども、よもやあんなに、しかも、皆の方がほとんど正装、または正装に近い服装でもう、それこそ華やかな御大祭でした。ね。
 もう、御直会なんかでも、お鏡は、あの、ね、お酒のかがみ抜きがあったり致しまして、まあ、大変な、もう大変なというか、行き届いたというか、ただ一つ、その難儀であったことは、とにかく2日間、私は前の日から、午後から参りましたが、ご馳走責めであったことです。あれはもう、あんまり前に出されたら、ぜんぜん食べられんですね、不思議に。もう、それはそれは、もう、ただ、こげんご馳走があるということを、まあ、見せて頂いただけで。そして、帰って来たらひもじゅうなったけんでん、何か食べなんちゅうごたる。もう、とにかくもう、見とったら食べられないです。
 と、まあ、言うならば、私はこのご馳走が多すぎたちゅうのがね、ほとめきられすぎたのが、ちょっと私は、まあ、難儀を感じましたけれども、もう皆さんの真心溢れるとは、あのことであろう。もちろん、その為には、もう何日も何日も、何ヶ月前から、あの、(かえ?)。それは、宮崎と言うても、延岡があり、高千穂があり、高鍋がありという風でですね、とにかく、まあ、宮崎全土に渡っておる、その幹部の方達が宮崎に集まって会議をするんです。
 そして、ああこう。そして、練って練って練り上げられて、あのお祭りです。まあ、こっからも40~50名ぐらい参られたでしょう、みんな。見えられた方達は、まあ、拝まれて。本当に一粒万倍と言うが、このことだな、と。信心の喜びと驚きと言うが、これだなという感じでした。
 まあ、元々言やあ、んなら、石川のおばあちゃんが一人。もう、とにかく一生懸命に、それこそ宮崎全土を股にかけて話して回られる。昨日も、黒木さんから電話がかかって参りまして、もう大変、まあ、おかげを頂いた、と。ね。そしてから、昨夜から石川のおばあちゃんがお話に来て頂いて、泊りがけで泊まっておられますち。もう、御大祭が済んだら、もう明くる日からまた回っておられる訳です。ね。
 とにかく、その、真とか真心とかと言うけれども、その真です、真心ですが、そういう風にその、こう、現されて行かなければね、私はそん時も皆さんに聞いて頂いたように、どんなに合楽のごひれいだと言うても、ね、それを受ける方の側が立ち上がって、受けようという、この神様のお働きと氏子の働きとがパッとこう合わなければ、この音も出ないんだ、と。
 それが、一生懸命であればあるほど、なら、大きな音が出るように、そういうものを感じましたお祭りでございました。ね。そこで私は、まあ、皆さんに申しました事でしたけれどもね。皆があの、おかげを受ける。まあ、とにかくあの、参拝をして来とる中、みんな、まだ顔も見たことない人達がたくさんお礼に出て来るんですよ。その中には、もう何日かの内には死ぬるような病人ですから、もう、病人がどこも受け付けなかった。それを、なら、県病院なら、誰か連れて県病院にやらせて頂いて、息子さんがお願いに見えた。
 それから、段々おかげを頂いて、この年末には、もう退院してよかろうという人がありました、もう、八十いくつのお婆さんですけど。もう、それは、もう、それはとにかく不思議な不思議なおかげを皆が頂いてるんです。合楽までは、なかなかお話は聞いとる、御神米は頂きよる、お願いはして頂きよるけれども、お参りをしたことのないという方達が、もう、まあ、この際お参りさせてもろうて、というのでございましたでしょうね。その、沢山な人が集まる。
 そういう、例えばおかげを下さることの出けれる神様。ね。ちょうど、そこの(萩?)の石川さんのご長男が延岡に勤めておる。で、ちょうどお祭りさせて頂こうという寸前に出て来ました、来てご挨拶にみえました。で、そのことを、私は皆さんに聞いて頂いたんですけれども。いわゆる、石川さんが胃癌で手術せねばならないという、ね、それからおかげを頂いて、まあ、手術をせんでおかげを頂いたという、まあ、お話でございましたけれども、なら、神様がおかげを下さろうということになれば、それこそ、死人が蘇るようなおかげにもなるのだけれども、お願いしてもお願いしてもおかげにならないならば、ね、それは、神様が力がないのだというような頂き方をせずに、これこそ、本当に神様がお徳を下さろうとしておることだ、と分かることだ、思い込むことだという御理解でした、宮崎では。
 他に以外はないて、金光教は、もう、おかげを頂くことと、お徳を頂くこと以外にないんだ。しかも、天地の親神様が切々としてです、ね、もう、とにかく人間氏子でなからなければ、そういう言うならばおかげもお徳も、ね、頂けずして現すことが出けない。
 天地の親神様の御恩恵によって、生けとし生ける者全てが、人間だけではない、あらゆる動物も植物もなんだけれども、なら、おかげを受けてくれる、またはお徳を受けれれるというのは、人間氏子だけしかないんだから、氏子信心しておかげを受けてくれよと仰る、そのおかげの中には、おかげということ、お徳というおかげなんです。この世はあの世のためにあると言われる。ね。
 だから、本当に私どもがこの世へ生を受けて来たということの不思議と、また、合楽にご縁を頂いたということの不思議を一つ、先ず感じて、そこから、いよいよ信心を進めて行く、分からせて頂こう。ね。そこで、んなら、いわゆる、今、まあ、奇跡と思われるようなおかげも頂き、ね、それでもね、願っても願ってもおかげにならん時には、ね、これは、このことによって神様が力を受けてくれよ、神様がお徳を下さろうとしておるなと分からせて頂いて、今朝からの御理解じゃないけれども、桜の花の信心より梅の花の信心という、辛抱がし抜けないところもある、ごたるところもあろうけれども、辛抱し抜かせて頂いて、信心辛抱の徳を受けよと、こう言う。ね。
 だんだん辛抱強いというか、我慢力というか、言うならば、何と言うでしょうかね。もう、辛抱することに慣れてしまったというのでは、悲しいですね。ね。苦しいです、けれども、その辛抱することに、もう慣れてしまったというのじゃない。ね。辛抱することの有り難さが分からせて、いわゆる、信心辛抱でなからなきゃいけない。神様にすがっての辛抱でなからなきゃいけない。
 その辛抱が身に徳を受ける修行ということにもなって来る。ね。だから、その辛抱させて頂くということも、それは苦しかったり眠かったりもしますけれども、ね、有り難いのです、お礼が言えれる。そういう、言うなら辛抱し抜かせて頂いて頂くところの梅の花の信心。ね。花が咲いたら鶯も来て止まるだろう。
 そして、実りも生まれるだろう、梅干という、いつまでおいても悪く(ならん徳に?)なるように。ね。そういうおかげの受けられる信心だ、ということをです、合楽理念の大事なところから、こう、まあ、それを抜粋して、まあ、南米には言うてあると、私は思います。
 今まで、かつて、そういう宗教はなかったと思うんです。この世では仕方のないと、まあ、お釈迦様は説かれたんですね。その、諦観です、諦めです。だから、しっかり信心しておって、あの世で極楽に行けというのである。キリストは、いわば、もうとにかく十字架を背負うた生涯。熱心になれば熱心になるほど、その十字架を感ずるという。それが、また有り難いということになるんだそうです。
 で、この世でね、私は金光教は、金光大神の信心はね、この世でやはり極楽を感じ、まあ、ここで言う合楽世界を感じさせてもらえれる信心を頂いて行く、その手立てがね、難しいことはない、人間が誰しもその気になればということである。先ほど、佐田紀子先生がここで発表した。
 私が耳が遠いからなのか、とにかく、もう熱心にお話して、感動いっぱいで話してるから、何を話しとるか分からんですもん、私が耳が遠いから、こうしとるけど。おそらく、今度のまあ、出産。そして、おかげを頂いたことを話しておるのだろうと思うんですけれどもね。ええ。
 ちょうど壱岐の方から見えとります。壱岐の方のお母さんがお手伝いにみえておりました。生まれる前からお手伝いに、病院の方へ行っておられる。で、帰って来てから、ところがどっこい、乳が出ないと言うの。ね。久留米の佐田さんの奥さんが、その時分に二階にお見舞いに行かれた。ところがもう、紫色になって泣きよるち。もう、宥めても腹かいて泣き止まんげなもん。まあ、腹かいてかどうか知らんばってん。
 佐田さんは、そげん言うた。もう、腹かいてあなた、泣き止みませんと、どげん宥めたっちゃ。したらその、壱岐のお母さんがもう、泣きながらあの、佐田さん、合楽の信心っちゃ、こげん火のつくように赤子が泣きよったっちゃ、その、ミルクやら飲ませられんとでしょうかち言って泣きなさるそうですもん。
 けん、(親先生は?)こっそりと飲ましなさりよるとじゃんのち、まあ、そういう意味のことを言うたというような話があるくらいです。そして、それこそ、泣き泣きその日帰られましたら、帰られた後から出るようになった、片一方の乳は。私はもう本当に、これは毎日ですけれども、その時分の佐田先生の御取次を願われるのは、真剣じゃったあごたる気がするですね。やっぱ、嫁御んこつやら子供んこっじゃから。
 親先生、今日もどうぞ合楽理念の実験実証させて下さいちゅうのでした。なら、良うもそればってん、そん時のことは、私も感じなかったんです。親先生、もう、それこそ泣っきって、もう紫色になって泣きよります。ね。けれども、ここはね、取次者として、言うなら本当に神様が赤子を恵んで下さるなら、この赤子を育てて下さる、乳を与えて下さらんはずはない。ここに確信をさせてもらえるためには、どうでも私ども夫婦が、ここで一つおかげを頂かせてもらわなん。
 ここで、合楽理念の実験実証をさせて頂かにゃというのが、もう、実に真剣でした。今日もどうぞ、合楽理念の実験実証させて下さいち。ね。まあ、それから色んなこともございましたけど、その色んなことを今日は話しよったんじゃろうと思うんですけれどもね。だから、その色んなところが皆さん聞いとられますから。私がそこの題のところだけをね、思いましたけれども。
 あそこに行きゃもう、何とん言えんとこですね。お母さんがほんなこて、もう、合楽っちゃち、赤ちゃんにミルクも飲ませられんじゃろうかと思う時にゃ、神様は絶対与えなさらじゃった。ね。けれども、帰った後にすぐおかげ頂いた。とにかく、実験実証させて頂きたいという両親の願いを、神様が聞き届け下さって、それから、またおかげを頂いて、両方からお乳が頂けるようになった。
 これはもうね、私はあの、合楽で言うおかげというのは、おかげを受けたではない、おかげを受ける時に神様を信ずる心が生まれる。おかげを受ける時に、こんなにも間違いないというおかげを頂くことの為に、実験実証を日頃しっかり信心しとかんと、そういう時に、言うならばすぐミルクを作って飲ませるというなことになったんじゃ、おかげを受ける。それは、ミルクを飲んじゃいかんじゃないです、与えていいです。
 ね、けれども、せっかく言うならば、これは取次者に限らず、信者に力を下さろうとする、そういう働きがね、起こって来るのですから、それを、んなら、合楽理念を持って受けるということ。いわゆる、日頃頂いておる合楽理念の実験実証をこれで頂こう、させて頂こうという信心が積もり積もって、力ともなり徳ともなる。ね、だから、日頃合楽理念の勉強がしっかり出けとかんと、なかなか、それが出けません。ね。
 そん為に日々がですよね、こんなにも神様の働きが間違いがないということを実感出けれる信心。それを、合楽ではリズムに乗ってと、こう申しますよね。今日、ちょうど四時の御祈念には入ろうとしておる時に、次々またお参りがあった中に、秋山さんの娘で嶋野というね、福岡の方へ行っとります。
 嶋野さんがお参りをして来た。もう、それこそ感動いっぱいで、その、でしたけれども。おそらく、その直後に来たっじゃろうと思うんです。今日はどういうもんか、朝からその、かぼちゃの入った団子汁ば食べたいち言うて、しきりに思うたち言う。
 私も、そげなかぼちゃ入りの団子汁じゃ食べたことなくて知らんばってん、美味しかげな。とにかく、そのかぼちゃ入りの団子汁を食べたら良かろうと思うて行って、お得意さんか、まあ、親戚のお家行ったげなら、ちょうど、そんかぼちゃのね、団子汁にそのあずきまで入れちゃるとげな。念の入っとる。いっぱい食べんのち言われた時に、まあ、今日はもう、私はそれが食べるごつしたこたえじゃったち。
 それこそ、神様有り難うございますで頂いた、ということを感動いっぱいで、んなら、かぼちゃの団子汁を食べたことが有り難いのじゃないのです。ね。もう、この人の場合なんか、いつもリズムに乗った生き方をさせて頂いとる人ですがです。ね。
 神様のこん心から欲しいなあ、と思うたら、もう向こうにはかぼちゃの団子汁を作って待ってござる。して嶋野さん、一杯どうぞち。まあ、もう本当に有り難い。もう、それこそ感動いっぱいで、それを、まあ、頂いたと言うのです。ね。それこそ、四時をちょっと過ぎて、まあ、そういう神様が喜びを受けて下さろうと言うのでしょうね、やっぱ、ちょっと時間がずれて遅うなっとったら、その、ちょうどそれをお願い、お願いじゃない、お礼。はあ、団子汁が食べられた、かぼちゃの入った団子汁を食べられたけんで有り難い、というのじゃないですよ皆さん。ね。
 もう、本当に例えば願っておることは、右と願うことは左になり、左となることが右になるようなことが続いておっても、そん中に神様がこのようにしてご守護下さるんだ、このようにして教導して下さるんだ、分からせて下さるのだという働きが必ずあるです、合楽理念に持ってやると。ね。
 だから、このようにも間違いのない神様の働きを受けておるのであるから、どういう、それこそ泣き泣き辛抱せんならんという時でも、辛抱し抜くことが出ける、辛抱し抜かせて頂いたその後は、辛抱が慣れて来る、と。辛抱に慣れて来るのじゃなくて、その辛抱がそれこそ血になり肉になって、辛抱の徳というものが頂けるということ。ね。
 私はこの辺のところをね、言うならば、人間が人間らしゅう生きながら、例えばそげなこつ言うなら、子供は、そん赤ん坊ん乳ん足らん時に、その飲ませもされんといったような悲観した心では、絶対おかげは頂かれんです。悲観というか、もう、そういう、足らん時にはもう、ミルクがあるけんでという、だから、ミルクを飲ませちゃええけれどもね、もう、そげん時にゃしっかり神様に、私に力がないから頂けんということをお詫びして頂かせろという風に、私はいつも申しますけれどもね。
 そこで、日頃の信心(でお願いして?)佐田先生じゃないけれども、今日もどうぞ、合楽理念の実験実証させて下さい。目の当たりに子供が泣っきるように泣いておるのを見る親の心というものは順ない、辛いだろうけれども、ね、修行(させなさい?)。
 今日も、楽人が足りませんから、(亀?)先生がおりませんから、赤ちゃんが今、あれしてる。この頃、火晴れでお礼に出て来た、大きな赤ちゃんです。それけん、やっぱ泣くとでん、もう、そうにゃひどかろうち、もう、ああいう風な、こう大きいからですね。けれども、あの、お祭り中、泣いたっじゃかまわんけんで置いて来いち。今日はどげな風でしたでしょうか。その、赤ちゃんを放からかしてから楽の御用を頂いとる。そういう時ですよね、あの、自分の心を神に向けるということは。ね。
 赤ん坊がおるけん、赤ちゃんがおるけんち、心を赤ん坊の方に向けてしもうたんでは、おかげにならんです。ここはという時には、(絶えず?)言葉が、なら、赤ちゃんが泣っきりよる、泣いても、ね、さあ、一時ばっかりは修行しなさいと言うて、置いて来るくらいな気持ちがなからなければ、神様を本当に頂くことは出けんです。だから、そういうね、手立てを日頃頂いておりますから、そしてその前後にで、こういう気になりゃ、こういうおかげが受けられるという、おかげを受けて修行に取り組む。
 もう、これ、もう、この世ではて、諦めるといったようなもんじゃないです。もう、本当に、まだキャッシュです、神様はおかげは。ええ。打てば響くごたるです。ね。そういう、なら、おかげを頂いて、いわゆる、目の当たりに、それを頂いて、ね、自分の心の中に、祈れども祈れども、願えども願えどもおかげにならんと言うならば、これは、いよいよ神様がお徳を下さろうとしておる(    )。
 いや、人間氏子にだけにしか渡されんのが、この御神徳ぞと言うておられる時と思うて、なら、御神徳を受ける時の信心は、どういう信心をさせて頂いたなら良いかという、今、梶原先生じゃない、佐田先生じゃないけれども、そういう時をね、あの、受け抜けれるだけの信心の力を頂きたいですね。
 それが、あの世にも持って行けれるものなんです。この世は、言うならばあの世のためにあると言われる、言うなら、もう、絶対あの世は暗黒なんだ。これは、いわゆる、金光教ではなくて、合楽ではそう説くのです。あの世は暗黒だ。だから、この世で徳を受け、力を受け心に光を頂かなければ、心が光に輝くように、光を持って行かなければ、あの世というところへ行けるところじゃないと、まあ、しんめいしてですね。
 この世でいよいよ光を頂く時、そのチャンスがある。ね。そのチャンスを逃さずに、頂く手立てを日頃けいこしておる。それこそ団子汁が食べたいなと思うたら、団子汁が頂けるようなおくり合わせを頂かなきゃいけん。神様が聞きござったじゃろうかと思うような。そのことが、有り難い、勿体無い。ね。
 そういうおかげがね、頂けるのが、私は合楽の信心。だから、そういうところを一つ、まあ、ブラジルの人達に分かるか分からんか知らんけれども、いよいよ強調して、金光教では、まあ、すんなりと、まあ、金光教のいろんなあれを送られることでしょう。だから、ちいっと、合楽の(方達は?)いつも言うようにニンニクの匂いのぷんぷんするごたっとば送ってやろうと思いよります。ね。
 そして、本当にです、これではいけん。なら、あちらはカトリックの国柄ですから、もう、カトリックじゃ駄目なんだ、助かり様はないんだと分かって、そこに本気で求めておる人達ならば、少々、匂いがニンニクの匂いであっても、頂いてみろうという気になって、頂だしたら止められんというようなおかげになって、いわゆる、南米全土に合楽理念が広がって行くというようなおかげを下さるチャンスを、神様が与えて下さったという風に思うんです。ね。
 しかし、どんなに考えても有り難い。いわゆる、その、ここの新聞の社に勤めておられる、ビリグイ教会のそのブラジル人の方で、熱心に日本語を勉強しよる。そして、日本の宗教を研究しようという人の(手釣り)で、今度いわゆる、南米の大新聞にです、ね、の宗教の覧に、これは金光教を紹介するだけじゃなくて、合楽理念とは、ということを掲載したい。しかも、まあ、出来れば何枚もの写真も何かもね、あの、送って下さいということですから、写真入りで報道するということになるでしょう。ね。
 そのためには、なら、皆さん自身がです、ただおかげを頂くからだけのような事ではなくてです、ね、おかげが受けられない時に、神様の力のないような思い方をせずに、こここそ、日頃の合楽理念の実験実証をさせて頂いてです、いよいよ、神様がもう、人間氏子にだけしか下さることの出来ない尊いもの。
 いわゆる、お徳を下さろうとしておる、力を下さろうとしておる、その働きを働きとして頂き頂いて行く構えをね、皆さん作って、合楽事態では、一人ひとりがこうおかげを受けておるという話も、やはり付け加えて送りたいと思うております。ね。
 今日は南米から参りました、その手紙を読んで聞かせてもらいましてから、ああ、大したことになって来たな。神様の働きっちゃ、それこそ宮崎支部の今度の御大祭じゃないけれども、本当に信心の驚きと喜びを感じずにはおられない。それを、また大きくです、ね、言うなら全世界に和賀心時代を、とこう願われておるその願いが、そういうような、南米の方でそういう働きが起こって来ておるという、あれやらこれやらを思い合わせてね、いよいよ有り難い。いわゆる、その教えを頂いておられる皆さん。地元の合楽自体がです、一つ、たしかに合楽理念の間違いないことをです、実証して頂きたいと思います。ね。
 そして、合楽に来たら、なるほど、一人ひとりがそのようなおかげを受けておられるというおかげを頂いて頂きたいです。これは、宮崎で申しましたようにです、ね、もう、今言うように、とにかく、もうない命と言われる人が助かるほどしのおかげが受けておるという事実は、もう、皆さん限りがないほどですけれども。そういうおかげを下さることの出けれる神様なんだから。
 下さろうという気になりゃ、あっという間におかげを下さるんだ。ね。けれども、それが頂けんとするならば、これはいよいよ、このことによって徳を下さろうとしておる。言うなら、力を下さろうとしておると皆さんが悟らせてもろうて、いよいよ、ほんなら、お徳を頂くためには、力を頂くためには合楽理念に基づいた信心をさせて頂いて、ここで、いよいよ上様の働きを頂こう、分からせて頂こう。
 佐田さんじゃないですけれども、いよいよ、本気で合楽理念の実験実証をさせて頂く時をいい加減にせずに、力をいわばお徳を頂いて行きたい。今朝からの御理解の中にもです、ね、ただおかげを頂いて有り難いというのでは、ね、神を信ずる氏子が多いけれどもの部類であって、神から信じられる氏子ということにならない。ね。ここは辛抱が出けないようなところでも、辛抱をし抜かせて頂いて、力を受けて。
 もう、あの氏子はと、神様のご信用もつくことになる。
 いわゆる、御神徳を受けること。もう、合楽ではここばっかりを説くのですからね、皆さんもその心構えでね、日々を頂いて。そして、ここは徳に力にしなきゃならんというところを、もう間違いない徳に力にして、いよいよ、ね、あの世にも持って行け、この世にも残しておけるというおかげ。ね。あの世にも持って行けれるおかげ。教祖の神様が信心しておかげを受けてくれというのは、そういう、あの世にも持って行けれるおかげを受けてくれよということなんです。どうぞ。